諸行無常入門 vol.5 「 流動体について 」

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小沢健二が19年ぶりシングル『流動体について』をリリースして、自分のほうも久々にシングルを買って、ミュージックステーションも見て、ドキドキした。(気づいたらもう3ヶ月経ってしまいましたが。)ちょっと備忘録。自分なりに整理したいので書き留めておこうと思う。

・日本の良さ
ニュースZEROのインタビューや朝日新聞に掲載された全面広告記事をチェックしてみると、小沢健二は日本の良いところについて言及している。具体的にはざっくりだが、「日本人がすぐ謝ることは、悪いこととはいいきれない。」とか「日本の食パンは、きめ細かくてハイレゾ。そのセンスは日本の良さだ。」というような内容があった。細かいところに気づくこと、きめ細かい感性。それが日本の良さなのかもしれない。

・気づける日本人
森田芳光監督の『の・ようなもの』という映画で主人公の落語家、志ん魚(しんとと)が街を歩きながら目に映る情景を頭の中で淡々と言葉にしながら歩く名シーンがある(これは落語の「道中づけ」という一種の型である)。
通り過ぎたらすぐ忘れてしまうような日常の刹那を形に表している点が非常に面白く、印象に残っている。
小説家や、作曲家を志す人にとっては日常の瞬間的な発見を形するのが仕事ともいえるだろう。日本人は古来から芸能や和歌でこうした機微を表現してきたのだ。

・流動的で普遍的な言葉
先の新聞広告では‟歴史の連続性”と題して、歴史や文化に普遍性があることを述べているが、‟流動体”もこの普遍性と深く関わっているように思う。流動体は普遍的なのだ。
流動性(変化すること)=普遍性(すべてに共通すること)」ということは逆説的にみえるかもしれない。これは前に説明した諸行無常と考えれば良いだろうか。「つまり、巡り巡ってみんな一緒」ということと照らし合わせると何だかしっくりくる。
ここで参考になるのが池上嘉彦の「記号論への招待(岩波新書)」だ。
言葉は記号という観点からみると、そこには「固定性」と「創造性」がある。
記号とは意味づけられたもの。例えば、標識が「止まれ」とか「進入禁止」とか意味することを考えれば分かりやすいが、これは習慣的に固定化された記号である。つまり、共通の認識という普遍性が成立している。しかし、記号には、文化を創造する美的機能がある。言葉には、意味を固定化すること‟ことばの牢獄”と、それを超えていこうとする「創造性」の二面性があるのだ。詩人は ‟ことばの牢獄に挑む人”だと池田氏は表現した。
‟言葉は”普遍的に流動的に時間や空間を超え、‟都市を変えていく”

絶えず移り変わる世界。それを固定化してしまうのもの言葉。それを乗り越えるの言葉だ。日本人は、きめ細かい食パン的な感性を持って普遍性を常に新鮮なものにしていけるだろう。その移り変わる一瞬を微分的につかむとき、それは言葉となり文化(歌や小説などの精神活動)となって相手に届くのだ。

もう一つ、歌を受け取る私たちも創造していることを忘れていはならない。「‟神の手”はアダムスミスの?それとも釈迦の?」とか「‟だけど”は何を受けているのかな?」、「二回目の‟もしも”の主節はどこかな?」とか思いながら。私たちはそのテクストからが新しい気づきを生み、言葉を生み出す。結局、僕はその刹那を探してしまう。言葉を借りていうなら‟良いことをする決意”を持ってこの瞬間を書き留めておこうと思うのだ。誰かの流星になりますように。しんとと。しんとと。
参考:
『流動体について』小沢健二 Universal Music
qetic記事/朝日新聞広告(2月21日)
https://qetic.jp/music/ozawakenji-170226/236406/
『の・ようなもの』森田芳光 KADOKAWA / 角川書店  
『記号への招待』池上 嘉彦 岩波書店
引用は‟”によって表す。
#流動体について